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OKIのおすすめ新品・中古ビジネスフォン丨ビジネスフォン図鑑|トラムシステム

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OKIビジネスフォンの特長

OKIのビジネスフォンは、スマートフォンの端末接続からホテルシステム連携、ナースコール、電話とパソコンを繋げる機能のCTI対応などの豊富な機能を備えています。セキュリティ対策も万全な機種をラインナップしています。ソフトフォンをはじめとした、さまざまな機器を端末で利用できるのが特徴です。

2000年代におけるOKIのビジネスフォンは「IPstage」の名称で「EX100→ EX300→1000/MX/SX」とバージョンアップを重ねてきました。2013年からは「CrosCore」シリーズが発売し、2017年からさらに進化をした「CrosCore2」シリーズがリリースしました。このシリーズのビジネスフォンは、小・中規模の会社を主なユーザーとしています。

  • 『IPstage EX100』(2001年〜)
  • 『IPstage EX300』(2002年〜2005年)
  • 『IPstage 1000/MX/SX』(2010年〜2014年)
  • 『CrosCore S/M/L』(2013年〜)
  • 『CrosCore2 S/M/L』(2017年〜)

こんな人におすすめ

他システムとの連携機能が充実しているOKIのビジネスフォンは、様々な業界・業種に適しています。2013年以降のCrosCore / CrosCore2シリーズは、小・中規模の規模のオフィスがある企業におすすめです。

各メーカーの特長についてはこちらの記事で詳しく解説しています。合わせてご覧ください。

おすすめOKIビジネスフォン(新品)

CrosCore2

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CrosCore2は、インターネットやIP電話への接続が可能です。侵入者感知や緊急地震速報などの安心・安全なセキュリティ機能を提供できます。離れた拠点とも内線で通話が可能。スマートフォン、FMCサービス業務効率向上・コスト削減ができます。多彩な業種・業態に適応し、数人から400人までの幅広いオフィスにおいてコミュニケーションの中核となるビジネスフォンです。

DISCOVERY neo(SIP-PBX)

「DISCOVERY neo」は大規模オフィスに最適なSIP-PBXです。従来型PBXの信頼性と堅牢性や豊富なPBX機能、高い回線収容力を備えつつ、通信サービスを統合したユニファイドコミュニケーションに対応します。あらゆるビジネスシーンで、オフィスで働く人のコミュニケーションを適切につなぎ、会社の発展に貢献してくれるでしょう。

おすすめOKIビジネスフォン(中古)

CrosCore

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CrosCoreは、豊富なビジネスフォンの機能と30機種にもなる多彩なコミュニケーション端末が特徴のシリーズです。簡易的なLAN、ルーター内蔵によるインターネット接続、侵入者の検知、緊急地震速報に対応するなどのセキュリティ機能も提供しています。

OKIの強みであるIP技術を活かし、スマートフォンやソフトフォンなどに対応し、コールセンターシステム、ホテル、病院などの業態向けシステムとの連携が可能で、効率的で機能的なオフィスネットワークの構築を実現します。

IPStage

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Cros Coreシリーズが発売される前の2010年〜2014年の間に販売されていたビジネスフォンです。小規模向けのSXと中規模向けのMXモデルがあります。電話による勧誘やアポイントを断られたお客様電話番号を登録することで再発信を自動的に防止する発信規制機能やクリアな音質が特徴です。

ビジネスフォンメーカーのOKIとは

沖電気工業株式会社(通称:OKI)は130年余にわたり、数々の画期的な製品を世に送り出してきました。事業としてはビジネスフォン、IP-PBX、コンビニエンスストア・金融機関などのATM、電話交換システム、空港や鉄道のチケット発券システムやチェックインシステム、さらに高速道路のETCシステムや空港の航空管制システムといった、社会インフラの整備に欠くことのできないシステムや機器の開発を担っています。

長年にわたり電話交換機の製造を行ってきた、日本最初の通信機器メーカーです。「電電ファミリー」として、NTT、NECとの関係が強いです。東京証券取引所一部上場しており、芙蓉グループに属しています。

OKI創業の歴史

沖電気工業株式会社の創設者である沖牙太郎が生まれたのは1848年です。広島県の農家の末っ子でしたが、農業を嫌い、従兄弟の銀細工師について武具、馬具などの金具づくりなどの技術習得に励みました。1870年、明治政府は工学知識の普及と工業発展のために工部省を設け、工学、電信、土木、造船、鉄道、製鉄などの各寮を付属させた。電信寮には電信機操作を教える修技校が開校、1873年には電信機の修理・製作をする製機所も付設された。1874年、27歳の沖は銀細工師として東京に進出し、広島県出身であった修技校の初代校長の原田隆造を頼りに行きます。

修技校に出入りするようになった沖は、やがて同じ構内にあった製機所の雑役夫として本採用されました。製機所とはいえ、集められていたのは素人の技術者でした。技術者たちはスイスのお雇い外国人で時計機械師ルイス・シェーファーから短期間の技術指導を受けます。製作所の技術者たちは、政府の電信機国産化の要請に答え、1876年には聴響器、避雷針などを出荷し、国産化もしだいに軌道に乗り出してきました。沖は主に旋盤作業を担当し、上京して3年で工部省の中堅技術者として昇進しました。

1877年の西南戦争は電信の普及に思わぬ貢献をします。熊本、鹿児島での戦況が逐一電信で伝えられ、瞬く間に新聞の号外として東京市内に広められました。これによって一般市民の間にも、電信の利用価値がようやく理解されるようになったため電信機国産に拍車がかかります。電話は1876年にアメリカのベルによって発明されました。翌年の1877年、横浜のバヴィア商会がアメリカのベル電話機輸出の第1号として輸入し、工部省から沖の製作所に2台持ち込まれました。

1878年には、早くも沖らはベル電話機2台を模造します。通話実験の結果は幽霊のような弱々しい音声でしたが、輸入した電話機も当時は同じようなものでした。新来の電話機模造に取り組んでいた時期、沖は同僚と製機所内に「ヤルキ社」というグループを結成しました。

本来の仕事とは別に、中堅技術者を中心に電機材料の国産化を進めようという、いわば研究グループであり、同時に起業グループのようなものでした。ヤルキ社はやる気とエレキを掛け合わせた、命名です。ヤルキ社で沖は紙製ダニエル電池と漆塗り線を開発し、工部省から表彰されています。

製機所には蒸気機械など新設備も導入され、沖入所当時と比べ、所員も増加していました。一方で、電信網の整備は進み、電話も有望な通信手段として研究が重ねられていました。電気通信技術者としての未来を切り開くには、製機所内にとどまるよりも、外に出て通信事業を興し、自ら引っ張っていくに越したことはないと考えて、沖は準備作業にとりかかります。

同僚らと相談し、後援を取り付け、1879年、仕事のかたわら電信局の下請け工場を始めます。工場とはいっても資金はわずかであり、長屋の片隅に足踏み旋盤2台を据え付けただけです。ブンゼン電池用のカーボンや電機材料、電鈴などをつくっては電信局に納入しました。そして、1881年、沖は電機製造・販売を業とする明工舎を創立しました。これが、現在につながる沖電気の始まりになります。

国内通信網の整備という国家目標のもとに、政府は超大型の電話拡張計画を発表します。1896年~1902年までの7カ年を期間とする第1次長期計画です。これをチャンスと捉えた沖は技術的、資金的な蓄積をすべて注ぎ込んで、一大工場の建設をします。そこには、外国資本の新鋭機に、電話を席巻されてはならないという使命感もありました。そして、沖電機工場は電気通信メーカーの最大手としての地位を確立し、1912年には、沖電気株式会社を設立します。

政府の第2次・第3次電話拡張計画によって、電話の架設は明治・大正を通じて順調に推移していました。1923年には、関東大震災で交換機や電話機の復旧を行い活躍します。軍事態勢が強化される中では、陸・海軍の要求で、主として無線機器と水測機器の製作に当たります。戦時における無線需要に貢献する立場となっていきました。

第2次世界大戦の終戦後には、芝浦工場の復旧工事と同時進行させる形で電話機の生産をスタートします。早くも電話機を納入し、電話復興の先駆けを築きました。

戦後の電話復興は資材不足、設備の不備、電力不足などを背景に、十分な品質を担保できませんでした。そこで復興へ向けて、新しい電話機へのニーズが顕著になっていきます。電話の復旧と足並みを揃えるように、終戦の翌年には当時の逓信院電気試験所が、新形電話機の開発計画を発表しました。

このプロジェクトには、OKIを含めた国内メーカー4社が参画します(後に6社で試作機を開発)。共同開発は、特許を含めて、各社が工場や製造技術も相互に公開しながら試作を行うという、異例の全面協力体制が組まれます。そこには、戦後復興のためのインフラをより強固にすべきというビジョンと、日本の電話機を世界のトップレベルに昇華させたいという強い思いが込められていました。

このプロセスを得て産声を上げたのが、「復興のシンボル」ともいわれた4号形電話機です。4号形電話機は各社共同による現場試験用の量産体制に突入します。1949年は企業再建整備法により沖電気株式会社を解散し、第2会社として沖電気工業株式会社を設立しました。

4号形電話機は各メーカーが量産し、1963年まで電信電話公社の発注のもとに、約400万台が生産されます。その中でOKIの生産台数はおよそ150万台にもなります。部品は各社の分担だったにもかかわらず、全部品の自社製造も行うなど電話機トップメーカーとしての確かな存在感をここに示しました。

日本経済は1955年を境に、国民所得が戦前を上回る水準に達し、高度経済成長へと突入します。OKIは生産設備と研究開発に積極的に投資するとともに、国内外に関係会社を設立し、総合通信メーカーとしての歩みを始めていきます。さらには、海外へ向けた事業拡大にも注力していきました。

1955年頃からコンピューターの時代が幕が開けます。 その中にあって、OKIは官民あげての国産コンピューター開発プロジェクトに参画していきます。特に周辺機器(入出力装置)の領域で時代をリードしていきました。

1960年代からダイヤル式「600形電話機」の量産など、電話機のOKIとして常に新しい電話機を生産し、業界をリードしてきました。OKIは電子式の「プッシュホン」の開発・生産に体制を移行していきます。

1972年には、公衆電気通信法が改正したことで、通信回線が一般企業にまで開放され、ビジネスファクシミリ市場にも参入します。1996年に、コールセンターシステムのシェア1位に成長した「CTstage」を開発しました。同製品には音声・ファクシミリ・電子メールなど、さまざまなメディアを統合する「ユニファイドメッセージ」の発想が存分に盛り込まれていました。

2000年以降には、情報通信、メカトロシステム、プリンター、EMSを事業部門として持ち、金融機関、官公庁、企業・法人などを中心に各種製品・ソリューションを提供していきます。


WRITER

トラムシステム(株)メディア編集担当 鈴木 康人

広告代理店にて、雑誌の編集、広告の営業、TV番組の制作、イベントの企画/運営と多岐に携わり、2017年よりトラムシステムに加わる。現在は、通信/音声は一からとなるが、だからこそ「よくわからない」の気持ちを理解して記事執筆を行う。


UNIVOICEが東京MXの「ええじゃないか」という番組に取り上げられました。

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